新生ボンド、ダニエル・クレイグの2作目。
前作「カジノロワイヤル」の続編。
前作からボンド役が変わるにあたって、それまでと大きく変わった点が、リアリズムの追求だった。
脚本を社会派ドラマに定評のあるポールハギスを起用したのが、大きな変更点だと思うが、狙い通り、悩み苦しむ泥臭い生身のボンドを生み出すことに成功したと言えるだろう。
そして今回の2作目も、そのままのボンドが登場する。
敏捷で高い身体能力を持ち、冷静沈着、冷酷非情な新生ボンドは、ダニエル・クレイグのキャラとも合って、新たなファンを獲得しただろう。
確かにこんなボンドもありだろう。
でも、なにかちょっと違う。
この違和感はなんだろうと考えてみる。
それは、自分がジェームズボンドに抱いて来た「英国紳士」のイメージとの「ズレ」なのだ。
特に初代のコネリー・ボンドには「それ」があった。
「それ」とは、一言で言えば「洒落っ気」だろうか?
例えばこんなシーン。
ボンドが留守の間に敵の情婦が忍び込み、バスタブに浸かっている。
それを見つけるボンド。
女がバスタブから出ようと「何か身に付けるものを取ってくださる?」と頼むと、ボンドは彼女が脱いでいた「サンダル」を拾い上げて渡そうとする。
またはこんなシーン。
部屋に忍び込んでいた敵に襲われ格闘になり、ボンド危機一髪。
機転を利かせて、部屋にあった「花瓶」で敵を殴り倒す。
その後何事も無かったようにネクタイを直し、割れた花瓶をデスクに置いて、ついでに花も差し直す。
といったシーンに見られる「洒落っ気」や「茶目っ気」
「センスオブユーモア」
それこそ、自分が憧れの「英国紳士」に抱く粋なイメージだった。
その部分がクレイグ・ボンドでは影を潜めてしまった。
そんな「洒落っ気」はリアリティがないと判断されたのだろうか?
冷静沈着、感情を抑えて、無口で、人前では笑顔も見せないボンド。
言ってみれば「ボンドがドイツ人になってしまった」ような感じだ。
まぁこの2作は、ボンドが一流の諜報部員になるまでの成長過程なので、そんな「余裕」はないとも取れる。
次回3作目で、そんな「余裕」が出て、真の英国紳士な諜報部員になれているかどうか、見物だ。